社会福祉法人 てしま福祉会
精神障害者 地域活動支援センター
咲笑(さくら)
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病気体験談集
絶望から希望へ
K.Y.
みなさん、こんにちは。
お忙しい中わざわざ足を運んでいただき、ありがとうございます。
私は現在28歳ですが、26歳の頃から約1年間、完全なヒキコモリでした。その当時は実家で生活していて、母親と妹との3人暮らしでした。まったく外出できず、自分の部屋からすら出ることができませんでした。トイレと食事を取る時以外はずっと自分の部屋に閉じこもりっぱなしでした。もちろん、家族との会話もいっさい無かったです。お風呂にも入らず、ゴミは部屋に溜まっていく一方で、ものすごい悪臭がただよっている状態でした。人間というのはうまく環境に適用するもので、その悪臭すら感じなくなっていました。ときどき母親や妹がドア越しに話しかけてきましたが、その声にはいっさい耳を傾けず、かたくなに引き篭もっていました。
ここで、私がヒキコモリになってしまった経緯を話したいと思います。
私が中学2年の頃、両親が離婚しました。父親は雀荘を経営していたのですが、麻雀が流行っていた頃にはお客さんもたくさん入っていて、経営は順調にいってました。
けれども、だんだんと麻雀の人気が落ち込み、お客さんが少なくなってくると、父親は店を開けようともせず、母親に仕事をまかせるようになりました。それからは父親は毎晩お酒を飲みに出かけるようになり、そのことで夫婦喧嘩が耐えないようになりました。夫婦喧嘩はエスカレートしていき、次第に父親は母親に暴力を振るうようになっていきました。結果、それに耐えられなくなった母親が私と妹を連れて家を出る形になり、しばらく経って離婚が成立しました。
そのことが原因なのかは分からないですけど、それからは他人が信じられなくなりました。友達はたくさんいましたが、いっしょに遊んでいても「この人は心の中では私のことをどう思っているのだろうか?内心、嫌っているんじゃないだろうか?」などと思うようになり、心から気を許せる友達というものができませんでした。
私は中学時代はあまり女性に興味が無く、ちょっと太めの体格だったせいもあって、女性と付き合ったことがありませんでした。高校に入ってから急に「女性にもてたい、付き合いたい」と思い始めるようになって、もてるにはどうしたらいいか?と考えた結果、ダイエットをして痩せようと思いました。それでダイエットしはじめたのですが、その方法というのが運動によるダイエットではなく、食事制限によるダイエットだったのです。最初のうちはちょっと食事を少なめに取る、ぐらいだったのですが、だんだん食事の量が減っていき、栄養分の少ない食べ物しか食べないようになりました。
その結果、ダイエットは成功し、女性からもある程度もてるようになって、高校時代は数人の女性と付き合うことができました。けれども、その外見を維持するためには食事制限が必要で、また「もっと細くなりたい」という願望もあり、しだいに限られた物しか食べられないようになっていきました。ある日、書店に行ってた時に、たまたま医学書コーナーをぶらっと見てたら「拒食症」についての専門書があり、それを手にとって読んでみると、「自分の許した、限られたものしか食べられない」という症状がある、と書いてあって、「私は拒食症なのか」と思いました。けれども、自分からは病院に行こうとはしませんでした。それからは家族と一緒に食事することを極力さけて、友人や恋人と食事をするときには「拒食症」とばれないように自分が食べられない物も無理やり食べるのですが、後から下剤を飲むという食生活を送っていました。
社会人になって働き始めてからも、そういう食生活をしていました。私はコンピュータを専門に勉強していたので、コンピュータ専門学校の講師を2年間、そのあとコンピュータシステム開発会社でプログラマーを2年間やっていました。プログラマーという仕事は頭を使う仕事ですけれども、体力的にもかなりハードな仕事で残業が多く、睡眠時間も1日3、4時間ぐらいしか取れない日々が続きました。私の「他人を信じられない」という性格もあってか会社での人間関係のことでストレスは溜まっていく一方で、しだいにストレスのはけ口をお酒に求めるようになっていきました。毎日、仕事が終わって家に帰るとお酒を酔いつぶれるまで飲み、そのまま寝るという生活が続きました。
そうしているうちに、今度は大量に食事をとってしまうという事がしばしば起こるようになり、そのたびに下剤を飲むという事を繰り返していました。「過食症」になってしまったのです。そういう生活を過ごしているうちに「私はいったい何のために生きているのだろう」と考えるようになって、それに加えて「過食症」で太り始めた自分に自己嫌悪し、「3日ほど有給休暇を取らせてください」と会社に連絡をして、結局3日経っても出勤せず、そのまま会社には行かなくなりました。それがヒキコモリ生活の始まりです。
引き篭もり始めて半年ぐらいは何もする気が起きず、ただ寝てばかりいました。たまに起きている時間はただTVをぼーっと眺めている生活でした。これが鬱状態です。ある日、ずっと触ってなかったパソコンの電源を入れてみました。インターネットで「ヒキコモリ」をキーワードに入れて検索してみると、あるチャットのサイトが見つかりました。チャットとはインターネットで複数の人が同時に文字による会話を行えるものです。
そのチャットは「ヒキコモリ」の人たちが集まるチャットで、同じ「ヒキコモリ」同士、気楽に悩みを打ち明けたり、たわいもない話を楽しめるものでした。私は毎日そのチャットに参加するようになりました。チャットをしていると、今自分が置かれている悲惨な現状から目をそむけられました。
しかし、鬱な気分は一向に良くならず、今度は自殺願望が出てきました。毎日「死にたい、どうやったら死ねるのだろうか?」ということばかり考えるようになって、チャットでもそのことを話しました。そしたら、私と同じように「死にたい」と思っている人がいて、「1人では怖いから、出来れば一緒に死ねたらいいな。」などと話していました。でも、その人も私も、死ぬのは怖いし苦痛を伴うだろうな、と思っていたのでなかなか実行には移せませんでした。けれども自殺願望は強くなる一方で、ある日縄跳びのロープをドアノブにくくり付けて「首吊り」をしました。けれども、ものすごく息苦しくて耐え切れず足で支えてしまって失敗に終わりました。
「確実に死ねる方法は無いのか」と考えて、今度は橋の上から飛び降りることを思いつきました。飛び降りしようと決めた夜、チャットで「今から死んできます」と発言しました。そしたら、その「一緒に死のう」と話していた人が、「明日そっちに行くから、それまでは死ぬな」と言ってきました。私は「どうせお前は来ないだろうし、もう死ぬと決めたから実行に移すよ」と言い、家を出ました。橋の上に到着して、いざ飛び降りようと思うと恐怖心が先にたち、なかなか飛び降りることができませんでした。
結局、その日は川岸にあるベンチで夜を過ごしました。朝になって、人通りもチラホラ見えてきて、ベンチで座っていると、後ろのほうから人の声がしました。妹でした。妹は泣きながら「生きててよかったぁ、お兄ちゃんが死んだら私はどうやって生きていったらいいのよ」と言いました。私はその言葉を聞いて、自然と涙が出ました。あとから1人、見知らぬ男性がやってきました。その男性は私がチャットで使ってた名前を呼び、「死んでなかったか。よかったよ。」と言いました。なんと「一緒に死のう」と言ってくれていたその人でした。
その人は愛知に住んでいて、まさか本当に来てくれるとは思ってもいなかったので、驚きの気持ちと、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。それから私は家に連れ戻され、一日経ってから病院に連れて行かれました。診察の結果、鬱病と診断され、すぐに入院の必要があると言われ、そのまま入院となりました。