社会福祉法人 てしま福祉会
精神障害者 地域活動支援センター
咲笑(さくら)
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病気体験談集
見 え な い 病
Y.S.(家族)
彼は、薬が飲めないのです。又、自分の洗濯すら、やらないのです。歯も磨けず、でも、「25歳で若いし」と言ってもらえ、誰かの保護のもとでならと思われたのか、退院促進事業を利用することで、病院から退院できました。
あの薬は命です。
入院した時期、彼は色白でした。退院した時、彼は日に焼けてもいないのに茶色い肌になってしまいました。でも彼は嬉しかったのです。退院できて、とても嬉しくって、お菓子やジュースや、病院の中で、週一回しか使えなかったお金も、兄貴のところで、働いた分は、テレビやゲームをしながら、楽しんでいたと思います。
グループホームの中での事は、私にはよく分かりませんが、薬が飲めず、私のマンションに来た時、朝最初の尿の色が赤茶で驚きました。おもわず松原先生のところに行き検査をお願いしました。
グループホームは、兄の家からも近く、咲笑からも近く、彼にとったら、良かったのですが、薬も飲めない彼を、私は放っておけず家を二人で色々と探しました。条件に、コンビニが近くにあるとか言う息子でした。最終、能勢に帰ってみようという事になり、私は、自信のない車の往復で、彼を乗せて帰っていました。でも、二人とも、まだ最初の頃は元気があり、それなりに彼が家にいて出かけない日は、私は帰りに待ち合わせして、買い物や、カラオケに一緒に行ったりしていました。
けれど、私の体力も、彼の調子を見てはいましたが、通院に同行したり、自分の自営業方のトラブル等で、疲れてきたのでしょう。秀にも色々と気配りできず、時には、彼に気を使わせていたと思います。
そんなおり、急に私の体調不良で、6月22日、彼を独りで出かけさせました。後から思うと、彼の通院日だったのです。その翌日、私は、胃の痛みで出歩かれず、救急車を頼みました。まさか入院になり、退院の日に秀を失うとは思っていませんでした。
冗談かと思うような入院で、胃痛がひどく、しかし、腸が悪く、急性憩(けい)室炎と呼ばれました。抗生物質の点滴で、良くなりその後検査が続きました。私にとったら、入院は、生命の洗濯のようなものでした。しかし個室に変わり、携帯と向き合い仕事の連絡を取り合うことが多くなり、クタクタになる日もありました。
秀に電話しようか、いや、眠りかけているかもと思い止めてしまい、夕方来る彼の姿に、いつからか変化を感じました。タバコの本数が増え、「僕、援護寮に行かなあかんな」とか、一度試しに行って、嫌がっていた所を、言い出したりしました。
最後に日は、「今すぐ池田駅にいかなあかんねん」とせわしなく息つく間も無く、あまりに汗をかく息子に、思わず「これ、お母さんの一番好きなハンカチやから、汗を拭くのに持って行き!」と持たせました。
だんだん彼の心は、余裕が無くなっていくのが感じられました。夜11時14分に携帯へ電話すると、「今、ジャパンでタバコを買っている」との事。心の中で、このまま寝ないんだろうなと思いました。まして、この日は、ワールドカップの最終日。「そんなことをしてたら、あかんやん」とか、私はなにげに言って、いやな予感があたらないことを願い、考えずにと思い眠りました。
翌週、7時過ぎ、兄貴に「仕事はしんどいから行かない」と連絡したらしいのですが、兄貴の方からも一言も無いので、私は全く知らずに家に戻りました。思わず植木バサミを取り、ロープを切り救急車を呼びました。
薬は命です。カバンの中にはずっと寝る前の薬が残っていました。誰一人確認することなくこの日を迎えたのです。
半年以上も、かかって合わせてもらった薬です。自傷行為もあり、タバコで腕を焼き、誰かとけんかしたと言われては、箕面の病院に迎えに行き整形外科の病院で手のひらの骨折を、診察してもらいに行ったりとか、今になったら思い出されます。
私が入院と同時に、手を打てば良かった、とか、色々と思い悩みます。私自身がそんな状態ではなかったのですが。
彼は、統合失調症の障害1級でした。一人で、家に戻り、親が入院し、不安と道連れだったのだろうと思います。可愛そうな事をしてしまったと。誰にも言わず、自分で独り決めて実行に移してしまったのです。
誰かがそばに居たら、彼は死なずに済んだのに、誰かが生命の薬を見てやったら、死なずに済んだのに今でも思います。
見えない病なので、身内にも分からない事があり、一緒に暮らしていたから、分かる部分も有ります。いつからか「今、病気が出ているねん。喋らんといて」とか、言うくらいで、邪魔しない様にしていました。ただ、病気が出る時間が決まってきていると思う頃から、夕方6時半頃には、薬を飲んどこと行ってました。
見えない病の生命は薬であり、人の思いやりだと思います。
生活が急に変わり、それに対応できなかった事を残念に思います。>
ご清聴ありがとうございました。