社会福祉法人 てしま福祉会
精神障害者 地域活動支援センター
咲笑(さくら)
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病気体験談集
私の過去を振り返って
M.H.
私が精神科の病院に通い始めたのは、17歳の時のことです。以来、この病気とのお付き合いも18年になります。今でも月に一度、精神科の病院に通っています。
これまで、いろんな人から、「どこが病気なん?」とか、「ぜんぜんそんなふうにみえへん。」などと、いわれてきましたが、実はこれでも立派な、いち精神障害者で、入院歴も4回あります。目には見えない部分、言葉ではうまく言い表すことのできない部分で、常に悩み苦しんできました。今では、統合失調症といわれていますが、少し前までは精神分裂病といわれていて、その言葉のもつひびきに、引け目を感じながら暮らしてきました。
私の過去を振り返ってみると、小学生から中学生にかけてはどちらかといえば活発な方で、昼休みになると、いちもくさんにグランドに飛び出し、友達と一緒に野球やサッカーをしていました。中学生になってからは、バスケットボールを始め、毎日クラブ活動に明け暮れていました。この頃から、少しずつ、友達の輪の中にいても、一人でいるような感じを持つようになっていきました。でも当時は、そういった感覚を簡単に乗り越えていくことができました。
高校生になると、学校でたくさんの人の中にいるのがしんどくなり始め、特にクラブ活動をすることもなく、ひとり孤立していくようになりました。そして、教室で授業を受けているとき、とても緊張し、授業に集中することができなくなっていきました。さらに学校の生徒みんなから私の悪口をいわれていると思うようになったり、自分の心の中が他人に見透かされているような気がしたりして、不安な日々を過して来ました。
しかし、心の病気に関する本を読むことで、今の自分は、対人恐怖や被害妄想の状態にあるということがなんとなくわかってきました。そして、本を通じて自分と同じような苦しみを持つ人がたくさんいることを知りました。それ以来、この分野の本をたくさん読むようになり、これらの本を読んでいるときだけは、少し心が癒されました。それでも、また学校に行くと、とても緊張し、この緊張感を取り除こうとすればするほどあせりがつのり、地獄にいるような毎日でした。食欲も落ちてきて、何を食べても砂をかむようで、全く味わうこともできません。
はじめは精神科の病院に行くと同級生や近所の人に変に思われるのが怖くて、いく勇気がなかったのですが、そんな事を言っていられる余裕もなくなり、何とか今のこの状態から救われたいという気持ちから神戸にある病院に行くことにしました。それが、17歳のときでした。
そこではまず、診察する前にカウンセリングがありました。私はすがるような想いで、当時の心境をじっくりきいてもらいました。そのカウンセラーは、少しなだめるように言葉をかけるだけでした。当時はそのことに何か物足りなさを感じていました。今思うと、ここで話を聞いてもらうだけで、少しはストレスの発散になっていたと思います。
そのあと医師の診察があり、はじめて診察を受けたとき先生は、終始笑顔で、病気のことにはまったく触れず、「せっかく神戸まで来たのだから、帰りに異人館をゆっくりみていったら楽しいよ。」と言われ、雑談だけで終わりました。
そして、薬をもらい、家に帰りました。半年ぐらいで、すっかり元気を取り戻し、「もう大丈夫だ」と勝手に決め付けて、病院に行くのをやめました。
クラスの変わった高校3年生の時、再発し、また病院に通うようになりました。調子の波はありましたが大学に行けば、仲間もできて楽しい学生生活を送れるだろうと思っていました。
学生生活が始まると、仲間もでき、半年ぐらいは若さとありあまるエネルギーで、勉強やサークル活動、その合い間にアルバイトもこなし、とてもはりきっていました。少し無理をし過ぎたのか、次第に、気力も無く、何をするにも億劫になっていきました。
キャンパスでは、学生の多さに圧倒されて、自分の中にあるエネルギーが全部吸い取られていくような感じがしました。このあたりから、症状のほうもますます悪化していき、自分の部屋に盗聴器などが仕掛けられていて、24時間監視されているとおもうようになりました。そして、家の中をすみずみ、盗聴器を探してまわりました。
そういったものは何も見つからなかったのですがなぜか少しも安心できず、外に出ても、絶えず誰かにあとを着けられているような気がするし、通学で電車のなかにいるときも、何人かがかたまって話をしていると、自分のことをうわさされているような気がして、いつも早くこの場から逃げ出したいと思っていました。どこにも逃げ場がなく、本当にリラックスする所がなく、この緊張感や不安感が高まるごとに病院に駆け込むといった学生生活がつづきました。病気のことは、家族以外には、誰にも言わず、隠し通し、この病気をかかえながらも、就職しました。
社会人になってからは、月に一度病院に通い続け、薬もちゃんと飲んでいたので、割と落ち着きを取り戻し、仕事のほうもしだいに慣れてきました。しかし、2年ぐらいたったとき、仕事の量が急に増えたことやそれにともなう人間関係のストレスから、ひどく落ち込み、入院することにしました。会社にはこの病気のことは言っていなかったので、そのとき、もう会社を辞めるしかないと思いました。
しかし、3ヶ月の入院で気持ちも落ち着き、またやり直せるという自信を取り戻すことができた。しばらく自宅で療養した後、職場復帰しました。休暇中のブランクはとても大きく、何から手につけたらよいのか、全くわかりません。その上、この病気のことで、まわりからどう思われているのかが気になって落ち込み、みんなの態度もどこかよそよそしくなっているように思えてきて、しだいに職場での居心地も悪くなっていきました。
仕事が終わり家に帰ると部屋でひとりじっと考え込むことが多くなり、「仕事をサボってばかりいていい加減にしろ」など人から責められているような声(幻聴)が聞こえ始め、不安な日が続きました。
それから2年後、再入院しました。もうこの時は、会社を辞めることを決めていました。病院の先生からは「また、必ず良くなるから、今すぐ決めることはない」、会社の上司からは「仕事をまじめにして、がんばっているのだから、やめることはない」と何度も引き止めてくれたのですが、また元気を取り戻して会社に復帰しても、職場に居づらいと思い、辞めることにしました。それから、職を転々としましたが、どれも長続きしませんでした。
何かの手続きで一度、保健所に訪れたときに、近くに私と同じ精神障害者が集う施設があることを紹介されました。そして、一度どんなところか見学させてもらいに行きました。そのときは、みんなで料理をしていました。同じ病気をもつ人が楽しそうにしているのを見て、ここに通うことを決めました。この施設で生活のリズムをつけ、次第に元気を取り戻すことができました。
半年ほど過ぎた頃、「ピアヘルパー」の養成講座があることを職員の方からおしえていただき、受講することにしました。もう少しがんばればその資格がとれるところまでいったのですが、その年の12月になったある夜、自宅にいると、家の周りを誰かたくさんの人に取り囲まれている感じがして、そのうち家に入ってきて、危害をくわえられると思い込み、落ちつかず、ずっと家の中をうろうろしていました。
そこで、両親が救急車を呼び、病院に運ばれました。
両親が当直医に経過を説明すると、すぐ入院してくださいといわれました。ここで、初めて閉鎖病棟に入りました。閉鎖病棟とは、入り口の門に鍵がかけられた入院病棟のことです。
入り口のドアの鍵をしめられたときの恐怖感やほかの入院患者の鋭い視線は、今でも忘れられません。
そして、こんなところにいたら、誰に、いつ、何をされるかわからないと思い込み、何とかしてここから逃げ出そうと、病棟内を走り回りました。結局、鍵のかかった部屋に入れられ、あきらめてベッドにもぐりこみました。すると、たくさんの人が見えないところに隠れて、まるで自分が何か悪いことでもしたかのような錯覚に陥り、「あいつ、殴ったろうか。」など、人から責められている声(幻聴)が聞こえてきました。
誰も信用できず、ただ、怖くておびえていました。
しばらくすると、看護師がきて、私の肩に注射を打ちました。すると、すぐに体から力が抜けていき、眠りにつきました。朝起きると同じ部屋の人が話しかけてくれたので、少し落ち着きを取り戻し、三日後、鍵のない部屋に移されました。その部屋は、ベッドの上に正座して、拝んでいる人や一度洗濯した服を続け様に何度も洗濯する人など、それぞれがいろんなくせを持ちながらも、おとなしい人たちばかりでした。病棟内では、けんかをしたり、大声で叫ぶ人もいましたが、2週間ぐらいで入院生活にも慣れてきました。
週に一度主治医の診察があり、そこで薬の調節をしてもらい、三ヶ月で退院することができました。今振り返ってみると、入院する前は少し張り切りすぎていて、軽いパニックを起していたのだと思います。
大体一年くらい過ぎた頃、被害妄想や気力の衰え、顔のつっぱった感じや頭痛、目の疲れが取れず、この状態が一ヶ月ぐらい続いたため、また入院することにしました。外泊はできたのですが、家に帰っても精神的に疲れると思ったので、年末年始を病棟で過ごすことにしました。入院中、話をする人もなく、病院のスタッフの対応も悪かったので、これなら、薬を調節してもらいながら通院したほうがましだと判断し、約2ヶ月でしんどいながらも、退院することにしました。
その後、調子の波はあったものの、比較的安定していました。そこで、もう一度ヘルパーの資格を取ろうと思い、去年ヘルパー2級の資格を取ることが出来ました。今は、ヘルパーステーション「アパラン」で働かせて頂いています。
私は、この病気になって、かえって良かったと思っています
この病気になったからといって、悲観することばかりではありません。病気になったらなったなりの生き方があります。
今でも、症状はありますが、毎日あせらず、ゆっくりと過ごして生きたいと思います。そして、また、この病気を治そうとするのではなく、この病気とうまく付き合っていけたらと思っています。
以上