社会福祉法人 てしま福祉会
精神障害者 地域活動支援センター
咲笑(さくら)
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病気体験談集
ある一人の男の体験記(闘病記)
I.T.
「1・なにかおかしい…」
僕が病気のことを意識しだしたのは中学三年生ぐらいのことでした。ちょうど高校入試の受験勉強が始まっていました。部活も活動を終わっていました。ちなみに当時の僕の部活は卓球部、副キャプテンでした。僕も僕の仲間たちも目の色変えて勉強していました。でも、なにかおかしい。なんだろう?みんなが僕の悪口を言っているような・ないような・でも、今はソンなのはどうでもいい。勉強しなくては…そんな感じでした。
そして結果がでました。入った高校は『某S高校』。もう、自分では自分に満点をあげれる様な、いい高校に入学できました。そして、僕は短距離走が少し得意だったので、ラグビー部に入部することにしました。「短距離が速い」と言っても、陸上部で活躍できるほどではなかったので、『足をラグビーで活かせたら…・』と想って入部しました。
でも、なにかおかしい。先輩は厳しかったです。メチャクチャ厳しかったです。その先輩が練習中に僕に『悪口』を言ってくるのです。なぜだろう?きっちり練習もしているのに。
そういえば、最近は、電車に乗っていても『悪口』がきこえてくる。なんなんだ・いったい。
「2・なんなんだ…」
だんだんと僕はラグビー部の練習に手がつかなくなっていました。でも、まだ、入って一ヵ月半くらい。もっと続けたいという気持ちでしたが・でも、『悪口』が気になって練習どころではないほどでした。『ラグビー部では、俺は嫌われている。ヤッパ、中学時代が卓球部だったからな~。』なんておもいました。でも、ラグビー部では一番足が速かったです。期待されていたのかもしれなかったですが、1.5ヶ月で退部しました。
ラグビー部をやめて、次の目標は『勉強』でした。ラグビー部退部の負い目もあったか、もう、メチャクチャに勉強しました。ホンと、一日、5,6時間は勉強しました。でも、なぜかおかしい。今度は、図書館とかでの勉強中に「うるさい、うるさい」と聞こえてくるのです。なぜだろう?でも、そんなのおかまいなし、僕は勉強していました。かなり必死な状態でした・
「3・某S高校中退」
だめだ、もう勉強できないと思いました。「悪口」をいわれる。あちらこちらと勉強する場所を変えて勉強してみました。でも、どこで勉強しようとも、悪口が聞こえてくる。もう、高校での「授業中」でも悪口がどんどんきこえてきていました。
そして最後は、家で勉強することにしました。はじめのうちは勉強がはかどりました。でも、しばらくしていると、また『うるさい、うるさい』という声が隣の家からとか、家の前の道を歩いている人とかが言うようになっていました。
この時点で高校二年生。ところで、学園生活の方はというと、やっぱり、「悪口」のせいで、できた友達はたったの一人でした。いつの間にか、僕は勉強しなくなっていたのです。成績はぼろぼろになり、でも、どの教科も『欠点』なしで三年生に上がれました。
もう、メチャクチャ必死でした。ここで忍耐力が底をつきました。『こんな学校、辞めてしまえ!』と、僕は学校を中退しました。
「4・テレビゲーム」
僕はもう、外へ出たらメチャクチャに『悪口』がきこえるようになっていました。ずっと家に閉じこもってテレビゲームをしていました。幸い、中学のときの友達が一人、毎日毎日勉強の合間に遊びに来てくれていました。ゲームをしているときは、とても幸せでした。「悪口」も聞こえてきませんでした。そして、しばらく時が流れ、僕の周りの友達は高校を卒業して大学受験のための浪人生活に入っていました。僕は、ゲームをやりながら、少しづつでしたが勉強をしていました。「大検」をとるためです。
でも、やはり、勉強中は悪口が聞こえてくる…・もちろん、家から一歩外に出れば、町中、僕の悪口でいっぱい。『俺は社会から嫌われている。家でゲームしていたらそれでいいだろう・』そうおもっていました。
「5・気がつけば…」
僕の中学時代の仲間たちが浪人中だった年、僕は、何とか『大検』をとることができました。ちなみに、簿記三級もゲットしました。これで最後。最後のときがやってきました。このころは、もう家の中で、ゲームをしていようが、勉強していようが、がんがん悪口が聞こえてくる。ある日、その『悪口』の内容が変わりました。ここではうまく表現できないのですが、『オカルト的な悪口』になったのです。
正直、このときの恐怖は、すごいものがありました。助けを求めて、家から外に出て二百メートルぐらい歩きました。すると、おかしい。おかしいのです。「家の中で聞こえていた声がまだ聞こえてくる。」のです。そのまま電車で少し足を伸ばしてみることにしました。しかし「家の中で聞こえていた声」がまだする。……・
……………・
しばらく日がたって、いつの間にか僕は『精神科の病院』に入院していました。
そう、その『悪口』というのは『幻聴』だったのです…・
気がつけば、何年間も「まぼろしの声」とやり取りしている自分でありました。
気がつけば、『幻聴』がそばにいた…・・
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これから、数年間、僕の闘病生活が続いていました。1991年(この年に初めて薬を飲んだ)から、1996年までです。いろんなことをしました。しかし、どれも効果があまりなかったです。あまり文章にしても意味がないので、ここには文章化しないことにします。
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「6・メチャクチャな転機」
1997年。僕にはもう『幻聴』はありませんでした。『薬』ですっかり『幻聴、妄想』はとれていました。しかし、『薬』の副作用のおかげで『何をやっても楽しくない、何にもしたくない、家から一歩も外に出ない、気力がまったくない→感情がない』という状態でした。
僕は、キレました。もう、幻聴はすっかり取れている。薬をやめても、もう大丈夫だ。いったい、こんな『何もやる気がでない状態』なんていやだ・薬をやめてやる!!!そんな感じです。
薬の量を自分勝手にメチャクチャ減らしました。すると、どうしたものか・『自分の心が戻ってきた』のでした。まあ、わかりやすく伝えるとすると「感情が出てきて、やる気も出て、楽しく毎日暮らせる」という状態でした。
僕は、97年に『某K高校の二部(夜間の高校)』に編入学しました。以前中退した『某S高校』に3年生までいて、しかも『大検』ももっていたので、定時制の高校には4年に編入学できました。
この定時制での一年間は、本当に楽しかったです。失った青春を一気に取り戻した気分でした。本当に幸せな一年間でした。なんと、高校を卒業することができました。
しかし、98年に病気が再発、この年に三回の入退院を経験しました。
99年から投薬を再開・自分的にはかなりショックだったです。しかし、薬の副作用が以前より、はるかに小さかったのです。お医者様が薬を換えたせいか、『感情のある自分』をキープできました。
「7・ラスト、今に至る」
99年からはホンとに楽しい生活を送れることができるようになりました。想えば、97年に薬を自分でやめて、そしてまたメチャクチャになって…・
98年の暮れごろからデイケアに通いだし、友達も急激に増え、今ではピアヘルパーの事業所で事務の仕事をしている自分がいる…・
今も、状態が悪い時だってあります。
でも、元気なときはメッチャ元気・
年をとるにつれて確実に元気になってきている自分がいます。
『人と人はささえあっていきている』ということを最近強く想うようになりました。ホンとにいろんな方に世話になって、今の自分がいるというのを痛烈に感じるのです。仲間たちやデイケアのスタッフさん、咲笑のスタッフさん、そしてお医者様の先生。なんといっても両親。
これから先もいろんなことが待っているでしょう。
いいことや、悪いことが、いっぱい僕を待っていることでしょう。
また、状態が悪化して入院、ってなこともあるかもしれない。
しかし、なんだか希望があります。
明日が楽しみです。
今は、それで十分。
今は、ホンと、それで十分です。
長い間、僕の体験記に付き合ってくださって、ありがとうございました。
これにて、僕の体験記は終わりです。